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「信ずることに到達する」って凄い言葉。
おそらく「考える」と言うことをいつまで続けても、結論は出ないのでしょう。人と人の「交わり」が共同創造を生むと確信しています。
質問者によって各々小林秀雄の口調、勢い、内容が変わる。それこそソクラテスの対話のよう。
5:37 人間の分際というものを忘れて物を考えてはいかん、という言葉は、真理を探究する人間が理性や知覚を超えんとしている傲慢さを知らせてくれる言葉だと、私は思います。
9:31 得意なとこで失敗する。使い易い道具って手を傷つけるんです。有難い言葉です。よく読んでまいります。
なんか年取ると、小林秀雄の言ってることが良くわかるなあ、考えるってこと
僕は高校生ですけどいずれ分かりますかね...。
なるほど。🙄声を聞けて良かった。
「不思議ですねえ。」「分かりませんよう。」「もっと簡単な質問をしてもらわないとこまるよう。」本居宣長の古事記伝。
かんがえるとは、かみむかえるの事 神を頭に宿すことを古神道ではいいます
考える、対象に交わる。わかる様な気はするけど、この「考える」は、様々な表現があって、共通の捉え所が難しい。しかし、「考える」と「想像力」は、常に複合的に使用されていなければ、何も得られない。「抽象的にものを考える?」 私にはこれは分からない。そんな思考があるのだろうか? 「精神」、これも実に不思議な言葉である。(精神について小林の説明が欲しい。)「千里眼」とは、ランボオの手紙の中で、“限度を超えて見る(詩人の説明)”とあるが、あれと同じか? もしそうなら、対象の本質に辿り着くまで考え続ける。ただ、人それぞれに解釈があって言葉による共通の説明は、既に不可能かも知れない。やった人だけが成果を得るが、ランボオが独語したように「架空のオペラ」であることを受け入れなければならない。議論が危うくなるほど、言葉の限界で会話をしている様な気がする。小林の生の言葉が聞けることには、とても感謝している。
ここでの小林は論点がはっきりしない。確かに、他者との交わりを強調しているが、小林の原点は自問自答にあったのではなかったか。
令和2年の今をご覧になられたら先生は泣かれるだろう。
一昨年だったか、適菜収さんが「小林秀雄の警告」を講談社α新書から上辞した。精神の本質からみるみる離れてゆく現代知性の危うさを小林秀雄の言葉で浮き立たせ、小林秀雄を再評価する内容だった。その後、CDの小林秀雄講演集全11巻(10巻?)を購入し半分位まで聴いた。かなりの数のTVのニュース番組が馬鹿馬鹿しくて見られなくなった。小林秀雄を読むと元気が出る。読書とは全く違い、講演を聴くとあの教祖小林秀雄!が非常に短なな存在に感じ、そして精神がキリっと引き締まる。今、こんな言葉を語れる人はいないね。
日本では古くから言霊信仰がある。しかし、私は言葉を信頼しない。むしろ、言葉よりその人のほほえみを信じます。
7:37
本居宣長が、古事記を読む事が、出来るようにした事の、偉大である事を小林秀雄は、切々と語るのです。小林秀雄を真に読むという事の難しさを知り、本居宣長を更に深く読まなければ、簡単に分かるものではないのです。自問自答という事の難しさを深く思うのです。独学もそうです。自己を知るという事も矢張り難しいのです。眼光紙背に徹して書を読むという事も難しいのです、
古事記・・・漢字が日本に入ってきたのは、明治の時に西洋文明が入ってきた時よりも大変だったのではないのかと・・・
少し頭でっかちかなぁ。伝わってこるもの、感じるものがないなぁ。
私宛のお便りへの、返信です。温かいお言葉で綴られている文章を、拝見したのですが、拝見した瞬間私の手が滑りまして、見失ったのです。大変遅くなりまして、誠に申し訳ありません。遅くなりましたが、私の拙文を記させて戴きたいと思うのです。 私は、今、古希になった許りです。54年前に、図らずも、小林秀雄に、遭遇致しまして、現在に至ったのです。その事は、語り出せば、斬りがない事になりますので、省略したいと思うのです。小林秀雄は、今も、悪戦苦闘して読み続けているのです。しかし、最近にりまして、それらの読んだことが、集まって来まして、驚くべき現象が起きて来たのです。これも又、語り出せば斬りがありませんので、省きたいと思うのです。心に染みる、有難いお言葉を、お送り下さいまして、誠に有難う御座います。どうかお、健やかに居られることを、深く思うのです。ありがとうございました。2020.3..8 (土曜日)
「信ずることに到達する」
って凄い言葉。
おそらく「考える」と言うことをいつまで続けても、結論は出ないのでしょう。人と人の「交わり」が共同創造を生むと確信しています。
質問者によって各々小林秀雄の口調、勢い、内容が変わる。それこそソクラテスの対話のよう。
5:37 人間の分際というものを忘れて物を考えてはいかん、という言葉は、真理を探究する人間が理性や知覚を超えんとしている傲慢さを知らせてくれる言葉だと、私は思います。
9:31 得意なとこで失敗する。使い易い道具って手を傷つけるんです。
有難い言葉です。よく読んでまいります。
なんか年取ると、小林秀雄の言ってることが良くわかるなあ、考えるってこと
僕は高校生ですけどいずれ分かりますかね...。
なるほど。🙄
声を聞けて良かった。
「不思議ですねえ。」「分かりませんよう。」「もっと簡単な質問をしてもらわないとこまるよう。」本居宣長の古事記伝。
かんがえるとは、かみむかえるの事 神を頭に宿すことを古神道ではいいます
考える、対象に交わる。わかる様な気はするけど、この「考える」は、様々な表現があって、共通の捉え所が難しい。しかし、「考える」と「想像力」は、常に複合的に使用されていなければ、何も得られない。「抽象的にものを考える?」 私にはこれは分からない。そんな思考があるのだろうか? 「精神」、これも実に不思議な言葉である。(精神について小林の説明が欲しい。)「千里眼」とは、ランボオの手紙の中で、“限度を超えて見る(詩人の説明)”とあるが、あれと同じか? もしそうなら、対象の本質に辿り着くまで考え続ける。ただ、人それぞれに解釈があって言葉による共通の説明は、既に不可能かも知れない。やった人だけが成果を得るが、ランボオが独語したように「架空のオペラ」であることを受け入れなければならない。議論が危うくなるほど、言葉の限界で会話をしている様な気がする。小林の生の言葉が聞けることには、とても感謝している。
ここでの小林は論点がはっきりしない。確かに、他者との交わりを強調しているが、小林の原点は自問自答にあったのではなかったか。
令和2年の今をご覧になられたら先生は泣かれるだろう。
一昨年だったか、適菜収さんが「小林秀雄の警告」を講談社α新書から上辞した。精神の本質からみるみる離れてゆく現代知性の危うさを小林秀雄の言葉で浮き立たせ、小林秀雄を再評価する内容だった。その後、CDの小林秀雄講演集全11巻(10巻?)を購入し半分位まで聴いた。かなりの数のTVのニュース番組が馬鹿馬鹿しくて見られなくなった。
小林秀雄を読むと元気が出る。読書とは全く違い、講演を聴くとあの教祖小林秀雄!が非常に短なな存在に感じ、そして精神がキリっと引き締まる。今、こんな言葉を語れる人はいないね。
日本では古くから言霊信仰がある。しかし、私は言葉を信頼しない。むしろ、言葉よりその人のほほえみを信じます。
7:37
本居宣長が、古事記を読む事が、出来るようにした事の、偉大である事を小林秀雄は、切々と語るのです。小林秀雄を真に読むという事の難しさを知り、本居宣長を更に深く読まなければ、簡単に分かるものではないのです。
自問自答という事の難しさを深く思うのです。
独学もそうです。
自己を知るという事も矢張り難しいのです。
眼光紙背に徹して書を読むという事も難しいのです、
古事記・・・漢字が日本に入ってきたのは、明治の時に西洋文明が入ってきた時よりも大変だったのではないのかと・・・
少し頭でっかちかなぁ。伝わってこるもの、感じるものがないなぁ。
私宛のお便りへの、返信です。
温かいお言葉で綴られている文章を、拝見したのですが、拝見した瞬間私の手が滑りまして、見失ったのです。大変遅くなりまして、誠に申し訳ありません。遅くなりましたが、私の拙文を記させて戴きたいと思うのです。 私は、今、古希になった許りです。54年前に、図らずも、小林秀雄に、遭遇致しまして、現在に至ったのです。その事は、語り出せば、斬りがない事になりますので、省略したいと思うのです。
小林秀雄は、今も、悪戦苦闘して読み続けているのです。
しかし、最近にりまして、それらの読んだことが、集まって来まして、驚くべき現象が起きて来たのです。これも又、語り出せば斬りがありませんので、省きたいと思うのです。
心に染みる、有難いお言葉を、お送り下さいまして、誠に有難う御座います。どうかお、健やかに居られることを、深く思うのです。ありがとうございました。
2020.3..8 (土曜日)